犬、そののち
わが家にはダイニングスペースも椅子もないので、リビングの丸テーブルを囲み三人でたらこパスタを食べた。茹で汁に塩を入れすぎたせいで麺がしょっぱすぎたのに、優里くんは、おいしい、と言ってくれた。千紘は無言だった。表情も、家に入ってきた時と変わらない無表情で、不器用にパスタをフォークに巻いて、口に運ぶさまはごく機械的だった。
テレビのない部屋に、食器どうしのぶつかるカチャカチャとした金属音が響く。不思議と気まずくはなく、それは優里くんが、絶えずなんらかの話題を提供してくれているからだ。青子の仕事はどう、忙しい? さいきん休みの日はなにしてるの。問いかけに、私は「まあまあかな」「洗濯と掃除と、スーパーに買い物。夕がたになったら散歩する」などと答えた。
私の生活はおもに仕事と、洗濯と掃除とスーパーでの買い物、そして散歩で成立している。それをつまらないと思ったことはない。
波風の立たない日々は平穏で、静かで、私は好きだった。だから今のこのような状況は、平らかだった水面に小石を投げこまれて波紋が広がっていくような、けっして不快ではないけれどたしかな不穏さを私に感じさせた。
「おいしい? 千紘」
少しの沈黙ののち、私は千紘にたずねた。私の皿にはパスタが三分の一ばかり残っているけれど、千紘の皿は食べはじめた時からあまり量が減っていなかった。
優里くんが横目で千紘を見やる。そのまなざしには心配の色が滲んでいた。
「おいしいよ」
千紘のうすい唇から言葉が滑り落ちる。ひさしぶりに聞く彼の声は、最後に会った時とまるで変わっていないように聞こえた。もちろんこの間に変声期があったわけでもなし、変化がないのは当然なのだけれど、それにしてもあまりにも以前と「同じ」で、私は少し、びっくりした。私は「よかった」と頷いて、パスタをフォークに巻きつけた。
「うん。すごくおいしい」
ありがとね、青子。と、千紘はつづけた。
「どういたしまして」
それから、私たちは黙々とパスタを食べた。やがて私の、ついで優里くんの皿が空になって、食後のお茶を淹れているあいだに千紘も完食した。単に食べるのが遅いだけで、食欲が皆無というわけではないようだった。膨満感で苦しいとか、喉に詰まって食べられないとか、そういう訴えはなく、ただ「ものを口に運ぶ」動作が億劫になっているのだろうと思われた。
「粗茶ですが」
客用の湯呑みなど気の利いたものはないから、適当なマグカップにほうじ茶を注いで優里くんと千紘の前に差し出しながら私は、まるで医師やカウンセラーみたいに千紘を分析しようとしている自分に気がついて、ハッとする。
私は彼の幼なじみに過ぎなくて、彼は私を必要としている。だから私の元を訪れた。ただそれだけのことで、やんややんやと推測、分析し、へたくそな気遣いを向けるのは、千紘をきっと侵犯している。
「……いぬ」
「え?」
ふいに千紘が口をひらいた。私は目をあげて千紘を見た。マグカップはぽってりとぶ厚く、千紘はそれを、両手を温めるように包んでいた。マグカップには白地に犬の――それもやたらとリアルな犬のシルエットが描かれている。それはフォルムから察するに、秋田犬と思われた。頭も体も大きく、たっぷりと肉づきが良い。いつだか母親が秋田旅行に行った際、お土産にと買ってきてくれたマグカップを私は無意識に手に取っていたらしい。
「ほんとだ。犬だ」
優里くんが千紘の手もとを覗き込んで言った。その時かすかだが、千紘の口もとが持ち上がった。
「あ、そうか」
私はようやく合点がいく。千紘は犬がすきなのだった。それこそマスコット的な小型犬よりも、昔ながらの犬らしい犬、愛嬌よりも頑強さを誇っている犬を千紘は昔から愛していた。
私たちが暮らしていた家の近所には、ペットというにはいささか野生みが過ぎるのではないかと感じる、大型で強面の犬がやたら多く飼われていた。それらの犬はみな心優しく逞しく、私たちのような(特に私みたいに可愛げのない)子どもにもけっして吠え散らかさず、賢かった。
彼の犬にたいする愛着と敬意は、そんな幼い頃にひっそりと培われていたのだった。
「千紘、犬がすきだもんね」
私が言うと、千紘ははにかんだ笑みを浮かべて頷いた。ひさしぶりに私は、彼の笑顔を見た。
食器は、優里くんと一緒に洗った。丁重に断ったのに優里くんはかたくなで、皿とカトラリーをシンクに下げると、スポンジを手に取ってさっさと洗い始めてしまった。しかたがないから私は、泡を洗い流した食器を拭き上げる役に回るべく、優里くんの隣に立った。千紘は食べた時の状態のまま、体を小さくして床に座っている。テーブルの上に置いたマグカップの中には、きっともう冷めてしまっただろうほうじ茶が残っていた。
「青子」
「ん?」
優里くんは手際良く食器を洗いながらぽつんと言った。
「なにも聞かないでいてくれてありがとう」
え? 私は、皿を拭いていた手を止めて優里くんを見た。
優里くんは顔をわずかに俯けて自身の手もとを見つめている。最後の一枚――私が使った皿をきれいに洗い終えると、スポンジの泡をていねいに揉み出して洗った。
「聞くことなんて、べつにないから」
私も優里くんと同じくらいの声量で、ぽつんと返す。優里くんはこちらを見て、私と視線を合わせた。少し切れ長の目もとがやわらかく細められる。
「青子がいてくれてよかった」
「えぇー? なに、それ」
私は笑った。そんなことを言われるなんて思ってもいなかったから、動揺しつつ、でも少しばかりうれしいと思った。
実際、ふたりにたいして私が聞くことは、もう全部聞いたのだった。おとといの夜、匠から電話がかかってきた時、すでに。
優里くんが説明してくれた、あれがすべてだと思った。私は精神科医でもカウンセラーでもない、会社勤めをするただの一般人で、そして千紘の幼馴染み。肩書としてはそれでしかないし、そうでしか在れない。それ以上のなにものにも、なれないのだった。
「私にはなにもできないと思うよ」
思わずそう付け加えた私に、優里くんは頷いた。
「でも、千紘が今求めてるのは青子だから」
「それさ、なんでかな。千紘には優里くんがいるのに」
「俺にできないことが、青子にはできるんだと思うよ」
「そんなことあるだろうか……」
ずっと抱えていた疑問について、改めて考える。
私は優里くんのように頭も良くないし、一人暮らしには慣れているけれど生活力があるかと言われれば自信がない。優里くんほどやさしくもないだろう。もしかしたら千紘が言われたくないことを、無神経に言ってしまうこともあるかもしれない。
自信ないな、と呟く私に、優里くんはゆったりと笑いかけた。
「ありがとうね、ほんとうに」
その後少しの時間くつろいで、優里くんは帰っていった、帰る
「千紘をよろしくお願いします」
「……はい」
娘を嫁に出す父親のような物言いにおかしくなってしまう。けれど、うまく笑えずに唇が中途半端にひらいて固まってしまったのは、顔を上げた優里くんが、ひどくやさしい表情をしていたから。
くやしいとか、思わないんだなあと私は思った。彼は、恋人である千紘が自分ではなく私を必要としたことにたいして、くやしいとか、かなしいとか、ちっとも思っていないらしかった。思っていないのか、思わないのか、思っているけれど私が察することができていないのか、それはわからないけれど。ともかく、優里くんは、完全に私を信頼していた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
なんと言ったらよいのかわからず、私もまた、ぺこんと頭を下げる。
優里くんは片手を挙げて、「じゃあ」と言った。私も手を振った。千紘は上り框に立ったまま、彼を見送った。
(26.0608)