必要なもの
「千紘を食わせてやってくれないか」
「……は?」
耳に当てた途端スマホから流れてきた
冬の始まりの風には潰れた銀杏の匂いが混ざっていて、すえた匂いについ顔をしかめてしまったけれど、頬に触れるそれは誰かのてのひらのように、ストレスで逆立っていた毛をしずかに
匠という男は単純かつ素朴な性格で、物事をオブラートに包んで話すことができない。学生時代、それは美徳であった。しかし社会人となり、現在は役所に勤めている身としては、ド直球な物言いをする性格は致命的な短所のように思えた。
私は彼が福祉課の受付でうっかり妙なことを言い、市民に唖然とされたり上司に叱責されたりしていないかにわかに不安になった。
「ちょっと、意味、わからないんだけど」
私は止まっていた脚をふたたび動かし始めた。蹴り出すように前へ、前へ。黒いパンプスのつま先は、夕闇の中でも革が傷つきくたびれているのがわかった。靴の汚れを見とめるたびにかなしい気持ちになるから、足もとはいつもきれいにしていたいのに、それができるような日常でない――その事実がくやしくて、かなしくて、ばかみたいだと思う。
電話の向こうで、匠が言葉を詰まらせた。そのすぐ側でなにやらがさごそとノイズが聞こえ、「匠、ちょっとスマホ貸して」と誰かの声がした。聞こえてきた声を、私は知っていた。
「もしもし、
優里くんは穏やかな口調でそう言った。私は社交辞令として、いいや、と首をふった。
「べつにいんだけどさ。匠の言う意味がわかんなくて」
「だよね、ごめん。匠とはちゃんと事前に、打ち合わせしていたのだけれど」
「なに、打ち合わせって」
ドッキリかなにか? 私が冗談を言って笑うと、優里くんもくすくすと笑った。
「まあドッキリと言えばそうなのかな。……あのさ、ほんとうに申し訳ないんだけど、」
一度言葉を切って息を吸い、彼は続けた。
「ちょっとのあいだでいいから、千紘を青子んとこで預かってもらいたいんだ」
歩を進めながら、私は「え」と声をもらした。とてもちいさなその声は、街を行き交う人の流れに浚われてあっというまに消えてしまった。
「預かるって?」
うん、と優里くんは困ったような声で言った。
「ごめん、急に、変なこと頼んで」
「いやぁ、……え、ってか、どうしたの? 千紘になんかあったの? 優里くんと喧嘩でもしたの」
「えーとね、うん……」
言葉を探して口ごもる優里くんに、私の頭は次第に、疑問でいっぱいになっていく。北風がびゅうびゅうと吹いて、スカートの裾が暴れた。ストッキングに包んだ脚はいちにちの労働を終えた今パンパンに浮腫んで痛いくらいだった。すぐにストッキングもパンプスを脱いで、部屋着のスウェットに着替えたかった。駅から自宅アパートまで徒歩二十分という立地は恵まれていると思うけれど、仕事終わりの夜に残された体力ゲージはいつも赤く明滅している。
疲れた、と思った。心の底からそう思って電車に揺られていた。長い階段を息を切らして上がって、そのときにかかってきた匠からの電話は謎すぎて、苛立ちに拍車をかけた。
威嚇するように逆立った毛はつめたい風と優里くんの声によって慰められたけれど、肝心の話の内容がまったく見えなかった。優里くんは言葉を選びながらゆっくりとしゃべった。私は口を挟まずに黙って聞いていた。
千紘は、なにもできなくなってしまったのだそうだ。
朝起きること、顔を洗って歯を磨くこと、朝食を食べること。仕事にはもちろん行かれず、体を起こしてリビングに出たと思ったら、すぐにベッドに戻ってしまう。
一緒に暮らす優里くんの助けがあってようよう食べて寝ることだけはして、生命はなんとか維持できているようだったけれど、優里くん曰く「俺にできるのはそこまで」らしかった。
そんな千紘がある日ぽつりと言ったそうだ。「青子のとこに行きたい」と。理由は聞いても話してくれなかったけど、なにかしたいとかの願望を言ってくれたのがひさしぶりでうれしくて、叶えてやりたくて。優里くんは慈しむようなやさしい声でそう言った。
「青子に迷惑かけるのはわかってるし、きみも仕事があるし、無理にとは言えないけど。もちろん、断ってくれたっていい」
「あー、うん……」
私は、優里くんはやさしいね、とつぶやいた。電話の向こうで彼は「そんなことないよ」と笑った。
「そんなことないよって言えるあたりが、だいぶやさしいと思う」
この人は他人に求められる人だなと、直感でわかる。千紘のことを特別大事にしてくれて、なにもできなくなってしまった千紘を今日まで支えてくれた。
「うちに来てもらうのは全然構わないけど、優里くんみたいにはできないよ、私」
私は優里くんにはなれないもの、と続けると、優里くんは、
「千紘に今必要なのは青子だから、大丈夫だよ」
と、言った。はは、と乾いた笑いが出た。
「なんか悪いなあ」
「なんで?」
ん、と喉を鳴らして私は天を仰いだ。千紘と優里くんはとても仲のよいカップルで、千紘には優里くんしかいないと思っていたし、優里くんにも千紘しかいないと思っていた。だから、そんなふたりのあいだに私が入っていったら、千紘がなにもできなくなる以上に、厄介で面倒で大変な問題が巻き起こるのではないかと。そう危惧したけれど、余計なことは言うまいとへらへら笑って私は答えを濁した。
いつのまにか、いつもの広い国道を渡り終えて、アパートに続く狭い道に差し掛かっていた。視線を向けた先にある三階建てのアパートは、築古のためか広さのわりに家賃を抑えられていて、気にいっていた。人間が一人増えても問題ないくらいのスペースは、一応、ある。
「それで、具体的にはいつ来るの?」
私は会社から支給されているスマホを取り出しスケジュールアプリをひらいた。今日は木曜日。明日会社に行けばやっと週末に入る。
「明後日の土曜日に、ふたりでお邪魔してもいい?」
「わかった。部屋片づけとくよ」
「お構いなくで。ごめん、ほんとうに」
「いいよ。っていうかべつに優里くんが謝ることでもないでしょ」
もちろん千紘が謝ることでもないけれど。私は会社のスマホをバッグに仕舞って、入れ代わりに部屋の鍵を取り出した。
「じゃ、土曜日ね。待ってる。気をつけて来て」
ありがとう、と優里くんは言って、通話が切れた。私はアパートの外灯の真下に立ったところだった。オレンジ色の灯りが頭に降り注ぎ、私のかたちの影を伸ばす。スマホを耳から離すと、ふうーっと長い長いため息をついた。疲労感がどっと押し寄せて、背中が重たかった。
なにもできなくなってしまった千紘、を想像しようとしたけれど、そのスクリーンには靄がかかっていて、輪郭さえもおぼろげだった。
自分の想像力の乏しさに呆れて、ため息をもう一度、深く吐き出した。
アパートの古びた階段を上り、二階の角部屋――二〇三号室のドアに鍵を差し入れる。ドアを開けると当然だけれどまっ暗で、でもこの暗さにも、いつのまにか慣れていた。
「ただいま」
暗い部屋に向かって声を投げる。誰の声も返ってこないとわかっていても、私は毎日、朝にはいってきますを、夜にはただいまを言う。ごはんを食べるときはいただきますをして手を合わせるし、ごちそうさまも言う。ぜんぶ、自分のために、言う。
パンプスを脱いだ途端、滞っていた血流が体全体に行き渡って、めまいを起こしそうになった。疲れたあああ、と私は喚きながら鍵を閉め、コートをキッチンの床に脱ぎ捨てた。
(25.0308)