幼なじみ
千紘と私は世間的にいえば幼なじみという関係で、同じ病院で同じ日、同じ時間に生まれた。地元は田舎で、まちには中規模の総合病院が一つあるだけだった。まちの子どもは、産婆さんが自宅であかんぼうを取り上げる以外は大概そこで生まれた。私と千紘みたいな偶然は、だから特にめずらしいものでもなかった。なんなら他にも同じ日の同じ時間に生まれた子どももいたから、私たちは顔の知らない「幼なじみ」がたくさんいる。田舎とはそういうものだった。
千紘の母親と私の母親は姉妹のように仲がよかった。同じ団地の同じ棟にくらすシングルマザー。私と千紘がそれぞれのおなかに宿る前からふたりは交流があり、神さまの計らいか妊娠時期も被ってしまったため連帯感はより強くなったのだろう。
姉妹みたいな絆で結ばれたふたりの女とその子どもたち――私と千紘は、その後四人で支え合って生きることとなる。なにせわれわれにはお金がなかったので、冷蔵庫にある食材をかき集めてどちらかの家で鍋をするのが週末の定番だった。夏でも、冬でも。闇鍋じみた鍋を四人で囲む東北の寒い冬の夜は、でもとてもあたたかく幸福な思い出だ。
私は自分の母親も、千紘の母親も、そして千紘も、たいせつな存在で、大すきだった。今だって、そうだ。だから、優里くんから「千紘がなにもできなくなった」と聞かされたとき、匠に「千紘を食わせてやってほしい」と言われたとき、咄嗟に思ったのは家が片づいてなくて千紘にリラックスして休めてもらえる場所がない、ということだった。
千紘を助けなければ。いやでも、そのためにはまず掃除をしなければ。
部屋全体をぐるりと見渡すと、十二畳のワンルームは雑然としていた。シンクには今日までに使われた食器が洗われずに溜まり、キッチン周りの床は油でベタベタしていた。ごみを出し忘れ続けているので、プラスチックごみを詰めた市の指定袋が玄関にいくつも並んでいる。こんなにわかりやすい場所に置いているのに、なぜか毎朝忘れてしまうのだ。
寝室兼リビングとしている空間は、ベッドには洗濯を終えたシャツや下着の類が散らばっており、床にも定期購読している文芸誌やハードカバーの本が山と積まれている。
よくこんなあらゆるものがとっ散らかったところで寝ていたな、と、ベッドの淵に座り毛布の上でくしゃくしゃになったTシャツを摘み上げて私は自分に感心する。ひとり暮らしの部屋なんてみんなこんなもんだろうとは思う。来客が少ないならなおさらだ。YouTubeやInstagramできれいに整えられた部屋ばかりが目立って見えるのは、それがきれいに整えられた部屋だからだ。きれいに整えられた部屋じゃなければ誰にも披露しない。きれいに整えられた部屋だから映せるものがあって、私の部屋は、そっち側ではないだけだ。
深く、長いため息をひとつ吐き出す。いちにちの疲れがじっとりと背中にまとわりついていた。明後日、優里くんが千紘を連れてくる。千紘と会うのはひさしぶりだった。彼を預かる――匠曰く「千紘を食わせてや」ること自体はまったく構わないのだけれど、さすがに今の状態の部屋に入れるのは気が引けた。だからといって掃除に取り掛かる体力と気力はすでに残されていなかった。優里くんに片づけて待ってると言ってしまった手前、ある程度やらなければならないだろう。いくらお構いなくと言われていても、だ。
あぁあ〜、と私は悲鳴のような呻き声を上げながらベッドに仰向けになった。掃除、片づけ、食器洗い、ごみ出し。日々命をすり減らしながら社会の歯車の一部をこなしている身に、日常的なタスクはどうしてもなおざりになってしまう。それじゃあいかんのだけれど。ほんとうは。
私は床に放り投げた仕事用バッグに手を伸ばし、ノールックで中を探ってスマホを取り出した。LINEのアプリを開き、千紘のアイコンまでスクロールする。最後に連絡を取ったのは今年の元日だった。あけましておめでとうの言葉と共に、「謹賀新年」のスタンプが添えられている。それからLINEも通話もしていないし、去年の暮れに会って以来千紘との交流は途絶えていた。だから、ほとんど一年振りの再会である。一年のあいだに、千紘の身になにが起こったのかわからない。なにもできなくなるほどのなにかが彼の身に降りかかってしまった。その理由は、でも実際にはどうでもいいのかもしれなかった。現実に起こっている事実を見ることしか、人間にはできないのだから。
メッセージのひとつやふたつ、なにか送ろうかと思ったけれど言葉が浮かばなかった。そうしているうちに睡魔が重たくのしかかってきて、とろとろとまぶたが下がってくる。やば、寝る。そう思った時には、私の意識は手離されていた。
◇
土曜日の朝は、気持ちよく晴れていた。ベッドにぺたんと座ってカーテンを開けた窓から空を見上げ、私はただただ茫然としていた。大きなあくびをこぼして、目じりに浮かんだ涙を拭う。昨日の夜、優里くんから「お昼ころに千紘と一緒に伺います」とご丁寧なLINEをもらった。スマホの画面を見ると、朝の七時を少しばかり過ぎたところだ。毛布に絡まった白いTシャツ――結局、畳むこともままならなかった――を掴んで床に落とす。下着やストッキングも、次々と落とす。柔軟剤のフローラルな香りがふわりと漂った。
掃除も片づけも手をつけられずに、とうとう今日を迎えてしまった。昨日までの一週間分の疲労で肩から背中、腰にかけてじわじわと痛いし、なにより眠くてしかたがない。二度寝の誘惑を払うように頭を左右に振って、私はようやくベッドから脚を下ろす。
ため息を吐き出した。最近、ため息ばかりついている気がした。まだ二十六歳なのに。それとも、もう二十六歳だから? 二十六歳という年齢は、「まだ」なのか「もう」なのか。なにが「まだ」でなにが「もう」なのか、さっぱりわからないけれど、なにか圧倒的で容赦のない線引きが社会――いや世間からなされているようで、不愉快だった。
洗面台の前に立ち、肌荒れの目立つ浮腫んだ顔を一瞥する。肉体的には「もう」二十六歳、なんだろうな、と思わざるを得ない。二十代前半、いや十代のころに比べて体はどうしようもなく衰えていた。
両手でつめたい水を掬って、顔を洗う。生まれてから二十六年ものあいだ、この体で生きてきた。体は、替えはきかない。だというのに、今まで雑に扱いすぎていたのかもしれなかった。でも、かといってデパコスのウン万する化粧水なんて買えないし、買おうと思ったことすらない。パシャパシャと冷水で顔を濡らし、タオルで水分を吸ったあとドラッグストアで買った安い化粧水を全顔に叩きこんだ。なんの効果があるのかわからないけれど、洗顔前より肌が潤ったのはたしかだった。
使い終えたタオルを洗濯機に放りこんで、その勢いで洗濯かごに溜まっていたワイシャツとストッキングも投入する。下着だけは二日にいっぺんは洗濯していたけれど、毎日取り替える仕事のためのシャツとストッキングは、スペアがあるからという理由で週末に五日分をまとめて洗濯する。
ごとごとと音を立てて回り始めた洗濯機から離れてキッチンに移動する。シンクの縁を掴んでしばらくとほうに暮れたあと、観念して洗い物を始めた。
古めかしいインターフォンの音が部屋に響いた。スマホで時間を確認すると十二時ちょうどだった。まじめな優里くんらしい律儀さに、パスタを茹でていた私は思わずふっ、と笑ってしまった。ちょうどアルデンテに茹で上がったパスタをざるに揚げてしまってから、玄関に向かった。
「こんにちは」
ドアを開けると優里くんと千紘が立っていた。やわらかく微笑んでいる優里くんの隣に、千紘はいた。優里くんよりちょっとだけ低い――でも、私よりは拳ひとつくらい高い――位置にある顔は、最後に会ったときに比べてわずかに小さくなったうに見えた。
短いまつげがふちどる目はきれいなアーモンド型で、小ぶりな鼻を持つ彼はときどき女性にまちがわれた。童顔でおとなしそうだからか、一緒に街を歩いていると知らない男から声がかかることもあった。たいていはナンパで、男たちの欲が滲んだ目に千紘はいつも怯えた。それが奥ゆかしいとか可愛らしいとかで、千紘はいっそう男たちの欲望の的になった。
「こんにちは」
千紘はペこん、と頭を下げた。さらさらの髪の毛が頬を滑った。私は「いらっしゃい」と言って、
「パスタ食べる? もうすぐできるんだけど」
茹で上げたパスタがくっついていないか心配になりながら、そう続ける。
「ふたりともお昼ごはん、食べてないでしょう」
言ってから、今の千紘はどのくらい食事ができるのだろうかと不安に思った。たらこスパゲティにするもりだったけれど、食べられるだろうか。
私の懸念を察したのか優里くんが「ありがとう」と言った。
「せっかくだしご馳走になろうかな」
「どうぞどうぞ。たいしたものじゃないけども」
玄関にふたりを招き入れる。狭い玄関は一人でもいっぱいになってしまうから、私は先に部屋に上がって、キッチンに立った。案の定、スパゲティはザルの中で少し固くなってしまっていた。
「ちょっと待ってね。すきに座ってくつろいで」
「ごめんね」
優里くんが気まずそうに謝ったので、私は口をへの字に曲げた。
「『ごめん』はいらない」
「あ、はい」
「謝ることなんてないじゃない」
「……うん」
優里くんは視線を足もとに落とした。部屋に差しこむ日を受けとめて、まつげが繊細にひかる。
「ありがとう」
ぽつ、と言って、優里くんは振り返った。千紘を見る。千紘は所在なげに部屋の真ん中に立ち尽くしていた。ダウンジャケットに包まれているのに、体の輪郭がなんだかはかなかった。こんなに薄っぺらい体をしていたっけ、彼は。記憶を辿ったけれど、千紘の体をまじまじと観察したことはなかったので、わからなかった。
「上着、脱いだら」
私は優里くんに、クローゼットから出していたハンガーを差し出した。私から優里くん、優里くんから千紘へとハンガーが手渡される。優里くんがコートを脱ぐのと同じタイミングで、千紘もダウンを脱いだ。
やっぱり、ちょっと痩せたかもしれない。
コットンのロングTシャツにジーンズというシンプルないでたちを好むところは前から変わらないけれど、あらわになったくびすじは折れそうに細かった。
あまり食べられないんだな、と私は思い、そして同時に、いつのまにか彼を病人のように見ている自分に気づいて嫌悪感が胸に広がった。
千紘はなにもできなくなってしまった。ただそれだけだ。
なにがあったのか、彼は病気なのか、わからない。今は特に知ろうと思わなかった。知ったところで私にできることなんて限られている。そしてきっと、できないことのほうが多いだろうと容易に想像もできた。
「お昼、たらこパスタだから」
ふたり分のハンガーを壁にかけている優里くんにそう告げて、私はキッチンに向き直る。
(25.0308)