No.7

colornegative

oite ikunai de.

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 なまえを、呼ばれた気がして足を止める。ふり返ったりすればいくぶんか、それらしい感傷に浸れそうだったけれど、柄じゃないので前を見続けた。
 いつも通る道、いつもの歩幅、でも空気に混ざっている匂いはきのうのそれより、少しだけ薄まっている。つめたい風が頬に当たってひどく、とてもひどく痛かった。はやく帰らなきゃ、と思う。それはとてもとても強い気持ちで、思う。でもどうしてか足が動かない。冬の匂いをはらんだ、どこからやってきたのかもわからない風が髪の毛をびょおびょおと煽る。置いてゆかないでね、と過去のどこかで誰かが私に言ったことを、とうとつに(ほんとうにとうとつに)思いだす。私は、私を一瞬だけ疑って、それから、たぶん正しかったあの時の選択を、(うべな)う。まちがいじゃなかった、きっと。今ならそう思うことができる。だっておとなになったから。なってしまったから。
 かんたんに泣いたりしないのも、おとなだからだ。おとなは車も人も通るこんな往来で、泣いたりしない。少なくとも、私の知る限りのおとなは。
 そう、だけど、泣くという選択肢を失っても、泣くという感情はまだちゃんとこんなにもせつじつに生きていて、生きているのに、どうしてちいとも涙が出ないんだろう。泣こうともしないんだろう。
 確実に何かを得て、この体は熟れてゆく。いっぽうで、どうしようもなく損なわれてゆく何かも、あるのだ。
 私のなまえを、私以外の誰かが呼ぶ。一人のただのおとなとして、私のなまえを呼ぶ。
 まだ何者でもなかった私はとうに死んでしまった。
 今ここにあるのは、熟しすぎて腐れてしまった、惨めったらしい両腕だけである。

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